昭和42年05月13日 夜の御理解



 信心の喜び、信心とはこんなに有難いものだろうかと、皆んなが信心の有難さを心の中に、こういう有難い信心をどうして早く頂かなかっただろうかと、こういう信心がいよいよ育って行ったなら、本当に人間幸せっていうのは、こういう時であろうかと、言う風に感じる程に御座いますけれども。信心の芽というのは、木の芽と同じ事、若葉、青葉の頃でございますが。
 その若葉青葉というのはみずみずしゅう、生き生きとしておりますけども、ちょっと日が強いと葉の先が、じわじわと萎れる、ちょっと傷付けられると、もうぐしゃっとなる、それが若葉青葉の素晴らしさと、又は弱さなんです。信心の喜びも同じ事、本当に有難い。あれ程有難いと行って居た者が、もう信心も辞めてしまった、そういう人もあるんですね。そこで思うんですが、信心の喜びというものを。
 例えば今日、あるお母さんが教会に御縁を頂いて、娘さんが縁づいておりまして、子供さんが出来て間もなく、 家庭の事情で帰って来た。それでも子供さんの事が忘れられずに、矢張り戻りたいという気持ちはあるんだけれども、さあ、呼びに来て貰わな帰る訳にはいかん。そこでお母さんと二人、或る教会の信心を頂いておるんだけれども、おかげを受けられんというので、ここえ大廻りをしまして、電車バスを利用して大廻りをして来ますから、五里の道乗り程になるでしょうか、そこを何回か参って参ります。
 最近は娘さんが一人でお参りして来ておりました。お母さんは長い間信心を頂いておるけれども、果たして、是で信心を頂いておるだろうかと言った様に、もう若葉の生き生きしたものではなくて、もう古い汚い花の様な感じですね。信心を頂いているという雰囲気が、全然ないという感じなのです。それでも、矢張り段々お参りしている内に、今迄の信心が間違っておったと、云う事を気付かせて貰い、娘さんは何とはなしに顔色が生き生きして参りましたね。
 なんとなく暗い顔の是じゃ姑からでも、主人からでも嫌われるだろうと思われる様な、暗い顔をしていましたけれども。段々お参りして来る度に生き生きとして来るんですね、それで今日、母娘で参ってきて、本人から聞いたのではないのですが。その方を導いた方が、夫婦で参って参りましてですね。先生あの人達は大変おかげ頂いてから、もう神様の働きが始まっていますと話されたんです。
 その娘さんが云う事に、本当に信心の有り難さというものを、とにかく合楽に行って見なければ解らないと、東玄関の事でしょう。あそこの手洗い場のところか、ら障子を開けて入って来ると、何故か知らんけれど涙が込み上げてくる。信心ちゃ不思議な事ですね。合楽ちゃ不思議なところですねと。私に云われましたと、そういえばここに参っても、何時も生き生きとして、御理解を頂くのを楽しみの様にして、その御理解で足らずに、又テ―プを聞いて帰られるんですよ、おかげ頂かれましてですね、先生にお届けはなかっですかと云われるんです。
 教会の帰りに、元の主人に逢われた。そしてお前はどこに行ったかと。私は合楽の金光様に、此頃はお参りしてるとこう云うた、俺もお前が実家に帰ってからは、こげなふうでふらふらしとる、と云うてそこで二人で話した事がです、例え、義母さんがどうだっちゃです、子供の為に、又一緒になりましょうといってから、義母さんが、どうこう云う事があるなら、親子三人で暮らそうと、言うふうな話をしたと云う事をです、お導きした方に話されたそうです。
 私は話さんのですけど、それでもそういう働きが始まっているという事、ここの帰りにご主人と逢えて、そういう事になってです、いわゆる先がほのぼのとして、明るいものを感じれる様になったと。生き生きとした喜びというものを、そういうおかげをキャッチし、そういうおかげを受け止められる心なのです。生き生きとした喜びというのは、新芽の若葉青葉と同じ事で。すぐ何かがありますと、しおれてしまうという性質のものなのです。何日かお参りをする。
 確かに誰でも入信時と変わる位に、心が生き生きとして来る、喜びの芽が出る。所があたら新芽を摘んでしまう様な事をして、おかげをよう頂かんと、その喜びの新芽というのがです。どうしてそんなに摘み取られたり、しおれたりするのだろうかと。たしかに信心の喜びというものは、神恩報謝の有難いという心、有難いという心を持ち続けておれば、新芽が信心の喜びの芽を刈り取る事ない。つみとる事ないのだけども、信心の喜びというものが中々続かない。
 そこで私今朝から、今日は十三日会でございましたから。お湿りの中皆さん集まられて、内外の御用を頂かれました、大勢でされましたので、またたくまに庭が綺麗になって参りました。何時もの事ながら、有り難いですね。朝はお湿りがあってましたので、草が取り易い、暑くもないと言う様な中に、草取りの御用を終ってから、三時頃から十三日会の共励がなされました。
 十三日会といえば言うなら御用団体が中心になるんです。それが十三日会が発会致しました時に、神様から頂いたのですけれど本当にその当時の椛目全体の信者が、大袈裟な様ですがどうして椛目の信者だけがこういう不遇の目に、合わなければならんのだろうか、どうしてこんなにあの人達から云われなければならんのかと。言う様な事があったんです。椛目全体の信者さんがですね。涙が出る様な思いをした事が御座います。
 たとえば十三日を期して御本部参拝をした、ここの親教会と団体で、毎月参拝をさせて貰った。ところが椛目は教会でもないのに、御本部参りをしたり他の教会に対して顔が潰れる。又、或る教会に団体参りをしたんです。そこは出社の一番堂々たる教会にも係らず、椛目はバス一台で参って来とる。椛目ですらバス一台で参って来るばい、あんたんとこはどげんしよるか、と。
 怒られたと言う訳だものですから、椛目が、椛目が、私共の顔を潰したと云うて、えらい先生が大変な見幕で、そう云う事を止める様に云われました。それで私共、その事を御本部参拝から、小倉教会やらが皆さんのご迷惑になるなら、今日限りで止めましょうというて止めたんです。さあ、それを聞いてた月参りをしている連中が、それこそ怒りましてね、今にでもその教会に押しかけて行く様な事になったんです、まあ待ちなさい待ちなさいと、その事をね神様にお礼のお届けをさせて頂きよったら。
 「神の機感にかなうのだ」と頂いた。ああ大変な事だ。私共の小さな願いじゃない、神様の願いが叶う事になって来るのだと。そう言う様な事で、皆んなを、どういう神様の願いがあるか分らんので、月参りを止めようと言うて、御本部の月参りも、小倉の月参りも止めました。その月から皆が話し合いましてね、十三日会というものが結集されました。十三日にお参りしよりましたから、そして御本部参拝の費用、小倉参拝の費用を、そのまま御用の為に積み立てようと、いう事になったんです。
 是は五年位前の話なんです。なんで私は、御本部参りも出来んか、教会で無かったら御本部参拝は出来んのか。小倉教会に団参も出来んのか、出来ん事はないけれど、私は大いなる馬鹿になる事だと思うんですね。その事を神様にお届けさせて頂きよったら。お前達の小さな願いじゃない、神の願い、神の悲しいまでの願いが叶うて行くのぞと、その切っ掛けが出来たのぞと、神様が仰る。
 そうして間もなく出来ましたのが、その当時の連中で出来た十三日会、その時までは、ここの御初穂であろうが、お賽銭であろうが、毎月、月参りの時の親教会と小倉はお参りするだけの普通の御初穂だったんですが、もう全部が御本部の御供で御座いましたから、ここには全然貯えがなかったんです。五年前ぐらいまではね、所が十三日会が始まってですね、十三日会の方達がですね、いわゆる奉賛会の様なものを作りまして、いよいよ椛目もこのままではいけない。
 何か大きな御用でも出来る為に積み立てをしようじゃないかというて、御信者さん方が集まって、積み立てを始めたのが十三日会が始まってからで御座いました。それが丁度三年位で七百万円貯まっていました。その当時のお金で。大概の人が十三日会費、十三日会費といっているんですね。昨日ある人がお参りして、十三日会費を2ケ月も御無礼しておりましたと、私に云うんですよ、あれは十三日会費じゃないよ、十三日会費じゃない、そんな事云うと、十三日会費を払わないと十三日会にかたられん様になるじゃないか、あれはね、本当に有難い勿体無い。
 そういうお礼のしるしが、ああなされるのである、又は信心も出来んのに、此の様なおかげを頂いてという、お詫びのしるしが、ああ云う事になるのであるから、あれは十三日会費じゃない。例えば十三日の一日だけぐらいは、神様の願いが叶う日としてです一ヶ月が三十日とするならば、二十九日は自分達の願いの為の毎日であっても良いけれども、その月の十三日の一日ぐらいは、神様の願いの成就していく日としておかげを頂こうじゃないか、という話し合いやらが相まって、おかげをこうむっておるのです。
 そういう神様の願いが叶っていく。
 神様の願いが成就して行く。そんなら神様はどう云う事を願いとしてあるのだろうかと思うてみなければいけないです、皆がお賽銭を集めたり沢山のお供えを集めたりそう云う事ではないのですね、神の悲願というのは。神の願いというのはそういうものじゃないのです。私共氏子一人一人がですね真実の助かりを頂くと云う事私共が助かると云う事は。どう言う様な事だろうかと今朝の御祈念の時に思わして頂いたんです。
 是は私共が不平不足の無い生活に入る事だと思うた、不平もなければ不足もない不平言わんぞ、不足は言わんぞと言わんだけなら修業が出来ますけれども、もう金輪際不足は言わんぞと云う事は中々難しい。不足を云わんだけでなしに不足に思わんで済む本当に自分ながら、今日は神様にその事をお礼申し上げさせて貰った。不足云わんと云う事はね辛抱すれば良い事ですからこの不足に思わんと云う事は中々難しいのですよ。
 それでも今日一日、そんなに不足に思わんで済む様に有難かったかというと、決して有難かったのではないけれども、今日は一日ぎりぎり相済まん、私という事を解らせて頂いたからなんです。今日一日有難い、勿体ない生活に入らせて貰えば、悔いもなかろう。不足もなかろう。それこそ不足を思う段でもない、それでも中々それが出来ませんけれども。さっき申しました様に信心の喜びの芽というのは、絶やさぬ様に、是はいよいよ強いものに育てて行く為にです。
 自分自身を、本気で良く解らせて頂かなければいけんのです。本気で解ると云う事はです、もうとてもとても不足を云える段じゃない。不足に思う段じゃないのですよ。自分が解ったら、今日一日不平言わんで済む 思わんで済む、それを支えたものは、私のぎりぎりの汚い心でした。言うなら汚い心が、今日一日私を救うてくれた事になるのです。こんなにおかげを頂いているのに、此の様な汚い心があるのです。
 此の様なあさましい心があるのです。それでも神様は此の様なおかげを下さっているのです。あれが普通ならば不足も言っただろう、思っただろう時にです、それこそ緊張しておりましたから、おかげを頂いて不平を言わんで済んだだけではなくて、思わんでも済む様なおかげを頂いた。 今日こそ十三日会の主旨で、ある天地の親神様の願いに、お答え申し上げた一日であったなあと、いう感じがしたんです。
 お金をお供えするとか、物をお供えするとか、一生懸命の水の行やら火の行をすると言った様な事じゃない。神の願いというものは、神様の願いというて神様がお供え物やら、何やらを、一人締めしたいと言ったものじゃないと云う事。神様の願いというものは、氏子一人一人がです、各人の心の中に不平を云わんで済む、不平を思わんで済む様な氏子が、一人でも出来る事の願い。
 そういう願いを天地の親神様はお持ちになっておられるのです。そういう心になれた時に神様がね、天地の神様の法則というのがある。そういう人間心の状態になれる時にですね、もう限りの無いおかげを下さる道が開けて来るのですよ。無尽蔵の限りのないおかげが頂けるんです、そういう心になった時神様は望まんでも頼まんでも、おかげを送って下さらなければならない様な一つの法則というのがあるのですね。
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